普遍性の地平:形而上学的実在から社会的実装に至る包括的調査報告書

1. 序論:普遍(Universality)概念の多層的位相

「普遍(Universality)」という概念は、人類の知的探求の歴史において、常に中心的な重力を持ち続けてきた。ラテン語の universalis に起源を持つこの語は、unus(一つ)と versus(向かった、変わった)の合成語である universus、すなわち「一つへと向かう全体」「宇宙」を語源とする 1。これは、多様で雑多な現象世界の背後に、一つの統一的な原理や秩序が存在するという直観、あるいは願望を内包している。哲学、科学、倫理、そして社会制度のあらゆる局面において、普遍性は「個物(Particular)」や「特殊(Specific)」との緊張関係の中で定義されてきた 4

本報告書は、普遍性という概念が持つ多面的な位相を、形而上学的な存在論争から始まり、自然科学における物理法則の適用範囲、人権論における文化との衝突、そして現代社会におけるインフラや福祉の実装に至るまで、包括的かつ詳細に分析するものである。特に、抽象的な概念がいかにして具体的な社会制度や物理的記述に転化されるのか、そのプロセスと構造的課題に焦点を当てる。

2. 形而上学的次元:普遍論争の歴史的展開と構造

「普遍的なもの」は実在するのか、それとも単なる名称に過ぎないのか。この「普遍論争(Problem of Universals)」は、中世スコラ哲学における最大の知的な戦場であったが、その根底にある問いは現代の認知科学や数理哲学にも直結する、認識の基盤に関わる問題である 5

2.1 古代・中世における実在論の射程

実在論(Realism)は、普遍が個物から独立して、あるいは個物の中に客観的な実体として存在すると主張する立場である。この立場は、我々の知識が単なる主観的な意見(doxa)を超えて、客観的な真理(episteme)に到達可能であるという信念を支えている。

2.1.1 プラトン的実在論とイデアの超越性

プラトンに端を発する極端な実在論は、普遍(イデア)が個物とは別個の領域(イデア界)に真に実在すると説く。例えば、地上のあらゆる「赤いもの」は、天上の「赤さそのもの」を分有(participate)することによってのみ赤くなりうる。ボエティウスが翻訳したポルフィリオスの『イサゴーゲー』に対する注釈を通じて中世に伝えられたこの議論は、普遍を「事物の前にあるもの(ante rem)」として捉える 8

この立場は、数学的対象の実在性を説明する上で強力な論拠となる。円や三角形の幾何学的定理は、現実世界の不完全な図形に依存せず成立する。現代における「数学的プラトニズム」もこの系譜にあり、フレーゲらが主張するように、数学的命題が真であるためには、その指示対象である数や集合が精神から独立して実在していなければならないとされる 9

2.1.2 アリストテレス的実在論と内在する形相

一方、アリストテレスの系譜を引く温健な実在論は、普遍を個物の中に内在する「形相(form)」として捉える(in re)。普遍は個物から離れて存在するのではなく、個物を通してのみ存在し、知性がそこから抽象することによって認識される。トマス・アクィナスはこの立場を継承し、普遍は神の知性の中(ante rem)、個物の中(in re)、そして人間の知性の中(post rem)の三様のあり方をすると整理した 10。これにより、神学的創造秩序と人間の科学的認識の整合性が図られたのである。

ボエティウスは、普遍が実体であるならば、それは「一つ」でありながら同時に多数の個物に全体として存在しなければならないという論理的困難(普遍のパラドックス)を指摘した 8。もし「人間性」という普遍的実体がソクラテスとプラトンの両方に全体として存在するなら、ソクラテスが動くとき普遍的な人間性も動き、結果としてプラトンも動かなければならないという奇妙な帰結が生じるからである。

2.2 唯名論による転回とオッカムの剃刀

14世紀に入り、オッカムのウィリアムらによって提唱された唯名論(Nominalism)は、普遍の実在性を否定し、「実在するのは個物のみである」と断じた 11

2.2.1 記号としての普遍

オッカムによれば、普遍とは外界に存在する実体ではなく、類似した個物を指し示すために精神が作り出した「記号(sign)」や「名前(nomen)」に過ぎない。彼は「必要なしに存在者を増やしてはならない(オッカムの剃刀)」という原理に基づき、普遍という存在論的カテゴリーを切断した 12

この転回は、単なる哲学的な節約以上の意味を持っていた。神学的観点から見れば、普遍的本質(例えば「善」のイデア)が神の意志に先立って存在するとすれば、神の全能性が制限されることになる。オッカムは神の絶対的な自由意志を強調し、神は何が善であるかを恣意的に決定できる(極端な例として、神が命じれば姦淫ですら善となりうる)とする「主意主義」を展開した 14。これは、普遍的な自然法秩序の崩壊を意味すると同時に、個別の経験的事実を重視する近代科学的なアプローチへの道を開いたとされる。

2.3 概念論とアベラールの調停

実在論と唯名論の二項対立に対し、ピエール・アベラールは「概念論(Conceptualism)」と呼ばれる第三の道を切り拓いた。彼は、普遍は単なる無意味な音声(flatus vocis)ではないが、独立した実体(res)でもないと主張した 15

アベラールにとって、普遍は「言葉(sermo)」の機能に属する。言葉は、個々の事物が共有する客観的な類似性(status)に基づいて、知性が形成した「概念」と結びつくことで意味を持つ。「人間であること」という状態は、ソクラテスやプラトンにおいて共通であるが、それは「人間性」というモノがあるわけではない。普遍性は、世界そのものの特徴ではなく、世界を捉える言語と精神の機能的特徴であるとされる 6。この視点は、普遍を人間の認知構造の中に位置づけた点で、カントや現代の認知心理学を先取りするものであった。

2.4 ヴィトゲンシュタインと「家族的類似性」

20世紀、ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは『哲学探究』において、普遍論争の前提となっていた「本質主義」を解体した。伝統的な哲学は、ある言葉(例えば「ゲーム」)が適用されるすべての対象に共通する、単一の本質的特徴が存在するはずだと仮定していた。

しかし、ヴィトゲンシュタインは「見よ、考え出すな」と命じる。ボードゲーム、カードゲーム、ボール遊び、オリンピック競技など、我々が「ゲーム」と呼ぶ活動すべてに共通する要素は存在しない。あるものは勝敗があり、あるものは一人で行い、あるものは運に依存し、あるものは技術に依存する。これらは単一の糸(本質)によって貫かれているのではなく、繊維が重なり合って一本のロープを作るように、「家族的類似性(Family Resemblance)」という重層的な類似のネットワークによって結びついているに過ぎない 17

この洞察は、普遍性を「厳密な共通属性の所有」から「緩やかな関係性の網の目」へと再定義し、境界が曖昧なカテゴリー(ファジィ集合)を扱う現代の情報科学や人工知能の分類モデルに対して、哲学的な正当性を与えている。

3. 自然科学的次元:物理的宇宙における普遍性の創発

哲学における普遍が「分類」の問題であったのに対し、現代物理学における普遍性は、システムの「挙動」に関する驚異的な同一性を指す。それは、ミクロな構成要素が全く異なるにもかかわらず、マクロなスケールでは同一の数理モデルに従うという現象である。

3.1 臨界現象と普遍性クラス

物質が相転移を起こす臨界点(Critical Point)近傍では、系の相関距離が無限大に発散し、ミクロなスケールの詳細が洗い流される現象が観測される。

3.1.1 ミクロの違いとマクロの同一性

例えば、液体が気体になる相転移と、磁石が熱によって磁力を失う(強磁性から常磁性へ)相転移は、物理的には全く異なるメカニズム(分子間のファンデルワールス力 vs 電子のスピン相互作用)によって引き起こされる。しかし、臨界点付近での比熱の発散や秩序変数の振る舞いを記述する「臨界指数(Critical Exponents)」は、両者で驚くほど一致する。このように、同じ臨界指数を持つシステム群は、同一の「普遍性クラス(Universality Class)」に属すると言われる 20

3.1.2 繰り込み群(Renormalization Group)による説明

この現象の理論的支柱となったのが、ケネス・ウィルソンらによる「繰り込み群(RG)」理論である。RG理論は、システムを粗視化(coarse-graining)する操作、すなわち「ズームアウト」を数学的に定式化したものである。

系を拡大スケールで見ていくと、原子レベルの複雑な相互作用の多くは、マクロな挙動に影響を与えずに消滅する(無関係変項 Irrelevant variables)。最終的に生き残るのは、空間の次元や対称性といった極めて少数の要素(関係変項 Relevant variables)のみである。異なるミクロ構造を持つシステムであっても、繰り込み変換を繰り返すことで、パラメータ空間上の同一の「固定点(Fixed Point)」へと引き寄せられる 22。

これは、「普遍性」がアプリオリな実体として存在するのではなく、スケール変換というプロセスを通じて、不要な情報が捨象されることによって「創発」されることを示唆している。唯名論的な個別の相互作用が、統計的な極限において実在論的な法則性を獲得するという、哲学的な統合のモデルを物理学が提示したと言える。

3.2 物理定数の不変性と微細構造定数 $\alpha$

宇宙のどこにおいても物理法則が同一であるという「普遍性」の信念は、基礎物理定数が時空を超えて不変であるという仮定に基づいている。その中でも特に注目されるのが、電磁相互作用の強さを規定する無次元量、「微細構造定数($\alpha$)」である 25

3.2.1 1/137の謎

$\alpha \approx 1/137.036$ という値は、光速度 $c$、電気素量 $e$、プランク定数 $\hbar$、真空の誘電率 $\epsilon_0$ という異なる物理定数の組み合わせからなるが、単位系に依存しない純粋な数である。この数が現在の値からわずかでもずれていれば、恒星内部での炭素生成が起こらず、生命が存在し得なかったとされる(人間原理的解釈)25

3.2.2 定数変動の探求

近年、クエーサーの観測スペクトルや原子時計を用いた実験により、この普遍定数が宇宙の歴史の中で変動している可能性が検証されている。もし $\alpha$ が時間的・空間的に変動しているならば、アインシュタインの等価原理を含む現代物理学の基礎が揺らぐことになる。

2024年に発表されたLAMOSTクエーサーサーベイのデータを含む最新の研究では、過去70億年以上にわたり $\alpha$ の相対的な変動率は $10^{-5}$ 以下であり、測定精度の範囲内で「定数は一定である」という普遍性が支持されている 27。しかし、トリウム229の核時計を用いた超高精度測定など、より微細な変動を検出しようとする試みは続いており、普遍性の検証は終わりのないプロセスとなっている 28。

3.3 数学の普遍性:発見か発明か

物理的世界を超えた数学的対象の普遍性については、プラトニズム(発見)と形式主義(発明)の対立が続いている。

  • 理不尽なまでの有効性: 物理学者ウィグナーが指摘したように、人間が純粋な思考の遊戯として発展させた非ユークリッド幾何学や群論が、後に素粒子物理学や一般相対性理論の記述に不可欠であることが判明するという事実は、数学的構造が物理的宇宙の深層に実在していることの証左とされる(数学的実在論)29
  • 虚構としての数学: 一方で、数学は人間が作り出した有用なフィクションに過ぎないとする虚構主義の立場もある。しかし、たとえエイリアンと遭遇したとしても、「素数の列」や「円周率」は共通の言語となりうるという直感は、数学的普遍性が人間中心的な文化構築物を超えていることを強く示唆している 31

4. 規範的・倫理的次元:人権の普遍性と文化的相対主義

「普遍(Universal)」の概念が最も激しい政治的・倫理的論争を巻き起こすのが、人権の領域である。1948年の『世界人権宣言』は、その名の通り人権の普遍性を宣言したが、その適用を巡っては、文化的固有性を主張する相対主義との間で緊張関係が続いている。

4.1 アジア的価値観(Asian Values)論争の構造

1990年代、シンガポールのリー・クアンユーやマレーシアのマハティール首相らによって提唱された「アジア的価値観」論は、西欧由来の普遍的人権概念に対する最も組織的な挑戦であった 33

4.1.1 相対主義の主張

彼らの主張の核は、人権の具体的内容や優先順位は、各社会の歴史的・文化的背景(Cultural Context)に依存するという文化相対主義である。具体的には以下の点が強調された:

  • コミュニティの優先: アジア社会においては、個人の自由よりも、家族や国家といった共同体の利益と調和が優先される。
  • 義務と権威: 個人の権利主張よりも、社会に対する義務の履行や、権威・年長者への敬意が道徳的基盤となる。
  • 経済発展の優先: 政治的自由や市民権よりも、貧困からの脱却と経済成長、社会秩序の維持が先行されるべきである(開発独裁の正当化)35

4.1.2 政治的機能としての「文化」

この言説は、西欧の自由民主主義がもたらす「過剰な個人主義」や社会的退廃(犯罪、麻薬、家庭崩壊)に対する防波堤として機能すると同時に、当時のアジア諸国政府が受けていた人権抑圧に対する国際的批判を「内政干渉」や「文化的帝国主義」として撥ねつけるための政治的な盾として利用された側面が強い 34

4.2 アマルティア・センによる批判と普遍性の再定義

経済学者・哲学者のアマルティア・センは、この「アジア的価値観」論を詳細に分析し、人権の普遍性を擁護する強力な論陣を張った 38

4.2.1 「アジア」という虚構

センはまず、「アジア」という巨大で多様な地域を単一の価値観で包括することの不可能性を指摘した。儒教文化圏だけでなく、仏教、イスラム教、ヒンドゥー教など極めて多様な伝統が混在しており、その中には個人の自由や寛容を重視する系譜も豊富に存在する。例えば、インドのムガル帝国皇帝アクバルやアショカ王の統治における宗教的寛容と自由の尊重は、同時代のヨーロッパの異端審問と比較しても遥かに先進的であった。したがって、自由や寛容を「西欧固有のもの」、権威主義を「アジア固有のもの」とする二分法は歴史的に誤りである 40

4.2.2 自由の道具的価値

「貧しい国は自由よりもパンを必要としている」というリー・クアンユーらの主張(リー・テーゼ)に対し、センは実証的な反論を行った。彼は、言論の自由があり、自由な選挙が行われている独立国家において、大規模な飢饉(Famine)が発生した事例は歴史上一度もないと指摘した。政府が批判に晒され、選挙で審判を受けるシステムが存在すれば、食糧危機に対して迅速に対応するインセンティブが働くからである。つまり、政治的自由や人権は、経済的安全保障を達成するための不可欠な「道具」としての普遍的価値を持つ 38

4.3 文化相対主義のパラドックスと自己オリエンタリズム

「アジア的価値観」論争は、文化相対主義が抱える論理的なパラドックスを浮き彫りにした。もし「外部の文化は現地の文化を批判してはならない」という命題を絶対的な真理とするならば、それは一つの普遍的な道徳法則(相互不干渉の義務)を主張していることになり、相対主義自体の前提と矛盾する。

さらに、抑圧的な政府が自国の文化を「アジア的価値観」として定義し、反体制派やマイノリティの声を「非アジア的」として排除する構造は、「自己オリエンタリズム(Self-Orientalism)」として批判される 35。これは、かつて西欧がアジアを「専制的で集団主義的」と規定したオリエンタリズムの偏見を、アジアの指導者自身が内面化し、自らの権力維持のために再利用する現象である。

真の普遍性は、特定の文化(西欧)の価値観を無批判に世界に押し付けることではなく、あらゆる文化圏の人々が、自らの政府や伝統に対して異議を申し立て、より良い生を追求するための「対話の基盤」を保障することにあると言える。

5. 社会的・実務的次元:普遍性の実装と課題

概念としての普遍性を、実際の社会システムや物理的な環境に落とし込む試みは、「ユニバーサルデザイン」や「ユニバーサルサービス」として結実している。ここでは、「すべての人(Universal)」という理念が、具体的な制約の中でどのように実装されているかを分析する。

5.1 ユニバーサルデザイン(UD):7原則と包摂の技術

ユニバーサルデザインは、ロナルド・メイスによって提唱され、「調整や特別な設計を必要とせず、最大限可能な限り、すべての人々が利用できるように製品や環境をデザインすること」と定義される 41。これは、障害者を「特別な対象」として扱うバリアフリーデザインから一歩進み、初期段階から多様なユーザーを想定する思想である。

ノースカロライナ州立大学の研究センターによって策定された以下の7原則は、UDの実装における世界的な指針となっている 42

表1:ユニバーサルデザインの7原則とその詳細

原則核心的概念実装の具体例と技術的対応
1. 公平な利用
(Equitable Use)
誰にでも同じ手段で利用可能であること。差別やスティグマを避ける。・近づくだけで開く自動ドア(荷物を持つ人、車椅子、子供すべてに公平)。
・ウェブサイトのアクセシビリティ(スクリーンリーダー対応)。
2. 利用における柔軟性
(Flexibility in Use)
個人の好みや能力の幅に対応できる選択肢の提供。・左右どちらの手でも使えるハサミ。
・再生速度や字幕の有無を選べる動画プレーヤー。
・ATMの音声案内とタッチパネルの併用。
3. 単純で直感的な利用
(Simple and Intuitive Use)
ユーザーの経験、知識、言語能力、集中力に依存しない理解しやすさ。・多言語に頼らないピクトグラム(非常口、トイレ)。
・直感的なGUI(グラフィカルユーザーインターフェース)。
・複雑な操作を排除したワンタッチボタン。
4. 知覚できる情報
(Perceptible Information)
周囲の状況(騒音、暗所)や感覚能力(視覚・聴覚障害)に関わらず情報が伝わる。・触覚ディスプレイや点字の併記。
・動画における字幕(CC)と音声解説(AD)。
・駅ホームの案内放送と電光掲示板の同期。
5. ミスの許容
(Tolerance for Error)
誤操作や不注意が危険な結果を招かないようなフェイルセーフ設計。・「元に戻す(Undo)」機能。
・二重操作が必要な危険機器のスイッチ。
・踏み外しても怪我をしにくい階段の縁素材。
6. 身体的負担の低減
(Low Physical Effort)
最小限の疲労と力で、快適に操作できること。・握る必要のないレバー式ドアノブ。
・軽い力で反応するタッチセンサー。
・腰をかがめずに使える高さのコンセント。
7. 接近・利用のためのサイズと空間体格、姿勢、移動手段(車椅子等)に関わらずアクセス可能なスペースの確保。・車椅子が回転できる多目的トイレ。
・広い改札口。
・座ったままでも届く低い位置のカウンターや操作盤。

これらの原則の実装には、しばしば「トレードオフ」の問題が生じる。例えば、視覚障害者のための点字ブロックは、車椅子ユーザーにとっては振動の原因となる障壁となりうる。真のユニバーサルデザインは、こうした競合するニーズを技術と対話によって調整し続けるプロセスそのものである 46

5.2 ユニバーサルサービス:通信インフラの変容と2025年の展望

「ユニバーサルサービス」は、市場原理だけでは供給されない不採算地域(過疎地や離島)を含め、国民生活に不可欠なサービスを「あまねく公平に」提供する法的義務(USO: Universal Service Obligation)を指す 47

5.2.1 固定電話からブロードバンドへのパラダイムシフト

かつてユニバーサルサービスの対象は、メタル回線による「加入電話(固定電話)」であった。日本ではNTT東日本・西日本がこの義務を負い、赤字分を全通信事業者が拠出する「ユニバーサルサービス料」によって補填する仕組みが運用されてきた 49。

しかし、インターネットが社会経済活動の基盤となる中、単なる音声通話の確保だけでは「公平性」を担保できなくなった。世界的に、ブロードバンド(高速インターネット)をユニバーサルサービスに含める動きが加速している。英国では2020年からブロードバンドのユニバーサルサービス義務化が実施され、すべての家庭に一定速度以上の接続を要求する権利が付与された 51。

5.2.2 日本における2025年の展望と政策転換

日本においては、2024年のPSTN(公衆交換電話網)のIP網への移行完了を受け、2025年に向けてユニバーサルサービスの定義が大きく再編されつつある。総務省の政策資料によれば、従来の固定電話に加え、ブロードバンドサービスそのものを「国民生活に不可欠なサービス」として位置づけ、交付金制度を通じて不採算地域での光ファイバー網や5G/Beyond 5G基地局の維持を支援する方向性が明確化している 52。

ここでは、物理的な回線敷設(Wired)だけでなく、ワイヤレス(Wireless)や衛星通信(Non-Terrestrial Networks)を含めた多様な手段で「接続性(Connectivity)」を確保する技術的中立性が重視されており、2025年の「デジタル田園都市国家構想」の実現に向けたインフラ基盤として機能することが期待されている 54。

5.3 経済的普遍性:UBI 対 UBS

経済的な生存権を普遍的に保障する手法として、「ユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)」と「ユニバーサル・ベーシックサービス(UBS)」の論争が活発化している 56

5.3.1 ユニバーサル・ベーシックインカム(UBI)

UBIは、すべての市民に対して、資産調査(ミーンズテスト)や労働要件を課さずに、無条件で現金を定期給付する構想である。その最大の強みは「自由」にある。現金は何にでも交換可能であり、個人の自律的な選択を尊重する。また、行政コストの削減や、AIによる雇用喪失への対策としても注目されている 58。しかし、市場に依存するため、インフレ時には実質価値が目減りするリスクや、必要なサービス(医療や教育)が市場で適切に供給されないリスク(市場の失敗)が指摘される。

5.3.2 ユニバーサル・ベーシックサービス(UBS)

対するUBSは、現金ではなく、生活に必要な基本的サービス(住居、交通、インターネット、食料、医療、教育など)を現物または無償アクセス権として普遍的に提供するアプローチである 56。UBSの支持者は、公共財の大量調達によるスケールメリットで、UBIよりも低コストで高い社会的効果(貧困削減)を達成できると主張する。ロンドン大学等の研究によれば、特定のニーズ(移動や通信)を直接満たすUBSは、現金をばら撒くよりも、社会的包摂(Social Inclusion)の観点から効果的であるとされる 56

この対立は、普遍性を「機会(現金)の平等」として捉えるか、「結果(生活水準)の保障」として捉えるかという、哲学的な立場の違いを反映している。

6. 結論:多層的な「普遍」の統合に向けて

本報告書の包括的な分析を通じて、「普遍(Universality)」という概念が持つ重層的な構造と、各次元間の密接な連関が明らかになった。

  1. 抽象から具体への連続性:
    中世哲学における「普遍論争」の枠組み(実在論 vs 唯名論)は、決して過去の遺物ではない。それは現代物理学における「繰り込み群」の理論において、ミクロな多様性(唯名論的個物)がマクロな法則性(実在論的普遍)へと統合されるプロセスとして数学的に再演されている。また、情報科学におけるカテゴリー論や機械学習のクラス分類(ヴィトゲンシュタイン的家族的類似性)の基礎理論としても機能している。
  2. 静的な本質から動的なプロセスへ:
    かつて普遍性は、プラトンのイデアのように、変化しない静的な「本質」として捉えられていた。しかし、現代における普遍性の理解は、より動的でプロセス指向的なものへと変容している。
  • 物理学: スケール変換という操作を通じて創発される性質。
  • 人権: 多様な文化間の対話と闘争を通じて、合意形成される共通基盤(センの議論)。
  • 社会実装: ユニバーサルデザインやサービスのように、技術革新とニーズの変化に応じて絶えず更新され続ける目標。
  1. 排除なき普遍性の追求:
    歴史的に「普遍」という言葉は、しばしば特定の支配的な価値観(例えば、西欧の男性中心的な合理性)を「普遍」と詐称し、そこから外れる他者を排除・抑圧する道具として機能してきた(アジア的価値観論争に見られる「対抗的普遍」の台頭はその反動である)。
    しかし、アマルティア・センが示したように、普遍性を完全に放棄して相対主義に閉じこもることは、弱者を救済する手立てを失うことと同義である。真の普遍性とは、多様性を消去して画一化することではなく、多様な個物や文化が、その固有性を保ちながらも共存し、対話するための「共通のプロトコル(基盤)」を構築することにある。

2025年以降、AIによる個人の選好の極大化(フィルターバブル)や社会の分断が進む中で、それでもなお私たちが共有すべき「普遍的なもの」とは何か。その問いは、形而上学的な真理の探究であると同時に、具体的な社会制度(ブロードバンド、UBI、法制度)を設計するための極めて実践的な課題として、我々の前に横たわっている。

引用文献

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  52. Appendix 1 Report on Considerations of the Universal Service System during the Transitional Period to Universal Broadband Servi, 12月 7, 2025にアクセス、 https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/eng/councilreport/pdf/101026_1.pdf
  53. MIC ICT Policy – 総務省, 12月 7, 2025にアクセス、 https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/eng/
  54. Provision of universal broadband service in Japan: A policy challenge toward a sustainable ICT infrastructure – EconStor, 12月 7, 2025にアクセス、 https://www.econstor.eu/bitstream/10419/106846/1/816841810.pdf
  55. 2025 January | Press Release | MIC ICT Policy – 総務省, 12月 7, 2025にアクセス、 https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/joho_tsusin/eng/pressrelease/2025/1/index.html
  56. Move the debate from Universal Basic Income to Universal Basic Services | UNESCO Inclusive Policy Lab, 12月 7, 2025にアクセス、 https://en.unesco.org/inclusivepolicylab/analytics/move-debate-universal-basic-income-universal-basic-services
  57. Universal basic income – Wikipedia, 12月 7, 2025にアクセス、 https://en.wikipedia.org/wiki/Universal_basic_income
  58. What Is UBI | The Stanford Basic Income Lab, 12月 7, 2025にアクセス、 https://basicincome.stanford.edu/about/what-is-ubi/
  59. Universal Basic Income or Universal Basic Services: which is better for a post-growth society? : r/BasicIncome – Reddit, 12月 7, 2025にアクセス、 https://www.reddit.com/r/BasicIncome/comments/16ork0r/universal_basic_income_or_universal_basic/

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